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冬の海が迫り来る男鹿市北浦の相川漁港。束ねた髪をなびかせて、和太鼓奏者は現れた。
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太鼓を叩く高揚感 初めて和太鼓を叩いたのは六歳の時。「盆踊りの日、親父が櫓の上で太鼓を叩いているのを見たのが最初。格好良くて、盆踊りよりも親父が太鼓を叩く姿をずっと下から見上げていた」と話す。父は息子をひょいと櫓に上げ、「叩いてみるか?」とバチを渡した。 「見上げていた櫓に自分が上がった時の爽快感。バチで太鼓を叩いた時の高揚感―。ここでは自分が主役なんだと思った」 その後、中学から男鹿市のなまはげ太鼓伝承会で手ほどきを受けたが、金足農業高校時代はバンドでドラムを叩いた。「何かが違う」と思っていた。ある日偶然、伝承会のメンバーに会ったことから和太鼓を再開、東京を中心に県内外で年間200公演を行うほどあちこちから声がかかった。「太鼓で食っていけるかも」。そう思っていた。 しかし高校卒業後は3年間、大野台グリーンファームで農畜産物の生産から販売、農業経営技術について研修した。一時、太鼓から遠ざかってはいたが、鷹巣町(現北秋田市)の和太鼓チーム・鷹巣ばやし普及会で練習に励み、町主催の太鼓の祭典「大響祭」に参加。それをきっかけにプロとしてスカウトされた。 「太鼓で食っていく夢が再燃して、初めて『自分の太鼓とは何だろう』と自問自答した。自分が打つのはきれいな太鼓ではない。それに、自分は農業をまっとうしたい―」 プロになる話を断った。太鼓と農業の生活。それが男鹿の相川で、この風土で生まれ育った者としての決断だった。 男鹿の風土を体感 地元である男鹿にこだわり、地元の人にこそ見てもらえる公演活動をしようと2002年に立ち上げたのが「なまはげ郷神楽」。4人だったメンバーも現在は16人を数えるまでに成長した。当初、男鹿温泉郷で連日行っていた野外公演が盛況で、夏期の定期公演にもつながった。一回あたりの観客数は少ない時で150人、多い時は500人を超えるほどとなり温泉郷をにぎわせている。 男鹿の風土を体感させる荒々しさ、伝説をほうふつさせる豊かな曲調、ハタハタが押し寄せてくる荒波の情景、波がはじけるようなリズム…。曲には男鹿の歴史や文化、風土を込め、演奏は激しく、荒々しく、躍動感にあふれた奏者の動きは見る者の心をとらえて離さない。 「男鹿に焦点を当てるのは、男鹿で生まれ育った自分にとっては自然なこと。よくよく分かっている男鹿の、ごくごく自然な情景を曲にしていくだけ」と話す。そのスタイルをつかんだのは04年、ソウルで開かれたドラム・フェスティバルに日本代表として参加した時のこと。なまはげ郷神楽は、参加団体の中で最も人気を集めた団体に贈られるザ・ベスト・ポピュラー賞を受賞した。 |
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![]() そうしてつかんだのが、ごくごく身近な男鹿の風土に根ざしたスタイル。例えば、なまはげが民家に入る時に足を踏みならす「門踏み」のしきたり。七、五、三のリズムを太鼓の拍子に入れ、問答なども太鼓の音にのせていく。たとえ消えてしまった伝説やしきたりでも、その意味合いをニュアンスとして曲の中に込めていく。 「太鼓はモノクロの世界。音の中に思いを込めていけば、見た人、聴いた人が、自分なりに感じ取って自分で色を付けてくれる」 音を打ち鳴らす者と聴く者の心の接点に懸けている。 言葉と心が通じる ふと曲想が思い浮かべば、農作業の合間にも小屋へと走っていく。自分の音楽を志すために、練習場となる小屋を8年前に建てた。「畑にいなければ、大抵ここにいる」と笑う。太鼓に懸ける思いは人一倍だからこそ、いつでも自分で太鼓を追求できる練習場が必要だった。 「技術は自ら常に上へ、上へと持ち上げていかなきゃならない。だから練習しないと腹が立つ」 そう話す目が鋭い。バチを手に太鼓の前で構えれば、踏みしめた両足が体をどっしりと支えているのが分かる。「太鼓はただ叩くわけではない。バチを振り下ろす時の落ちるエネルギーと、上へと引っ張るエネルギーの遠心力が大切。力点が作用するところだけ力を入れて、あとは力を抜いてコントロールする」という。 太鼓は遠くへ音を響かせるための原始的な楽器だ。 「太鼓が響けば、言葉も心も通じる」 そう言って打ち鳴らす太鼓の音が、あたりの雪景色に溶け込んでいく。雪が解ければ、男鹿の山々にまた山菜の季節が訪れる。 |
(2006.4 Vol57 掲載)
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こばやし・やすたか |