異世界より現れし謎の勇者…。
その正体は、科学とメカを駆使する天才少女! カラクリ従者を従えて、未知なる力で大活躍!?
そんな滑り出しでテンポよく始まる最新作のギャグファンタジー『なんだ、ただの勇者様か』。発明家の少女がタイムマシンで向かった先で、なし崩し的に仲間とともに魔王を倒す旅に出るはめになる。
冒険は、罠から始まった…。
果たして、どんな旅になるのだろう?
自分の内面を投影
明るく素直な少女かと思いきや、毒を吐く。
弱々しく、かれんな風情でいて、強引でわがままな性格。
「勇者」とおだてられるアニスと、過去の世界の美しい姫・ソフィア。ふたりの少女を中心に繰り広げられる最新作は、科学とファンタジーを描いたネットコミック。キャラクターの軽やかな動きを眺めるうちに、話の展開につい、はまってしまう。書き文字のつぶやきにニヤッと笑い、キャラクターと一緒に主人公に突っ込みを入れながら、次々にページをめくっていく。
「かわいいキャラで、ブラックなことを言う。主人公はたいてい、そういう一筋縄ではいかない、ひねくれ者。キャラクターには作者の心の一部が出てしまうものだから、ひねくれ者は、私の内面を投影しているのかもしれませんね」
取材時まで、第2話が完成していた。まだ始まったばかりのコミックだが、話の方向性はすでに出来上がっているという。
「ただ、キャラクターと自分のペンがなじむまでには時間がかかります。今回もキャラクターにペン慣れするまで、あと20〜30ページは書かないと」
秋田市内のとあるマンションの1室。晴れた日には鳥海山も見えるこの部屋で動かすペン先から、さまざまなキャラクターが過去へ、未来へと勢いよく飛び出していく。
刺激的な出会い
旧協和町の蔵元・奥田酒造店に、3人兄弟の次男として生まれた。漫画と野球が好きだった少年は、他の子どもたちと同じように『週刊少年チャンピオン』や『週刊少年ジャンプ』などを読みふけり、ジャンプの「サーキットの狼」を読んでは兄と国道を運良く通過するスーパーカーの撮影に夢中になった。
絵を描くことも、好きだった。左腕に大けがをして秋田市内の整形外科に通うことになった時、祖母は病院近くの絵画教室にも通わせた。いま思えば、すでに孫の才能を見抜いていたのかもしれない。
絵を描く楽しみ方が一変したのは、高校の時。1年時の同級生に今野 仁さんがいた。「超神ネイガー」の人気悪役を演じ、なまはげをモチーフにした絵本『ちびっコなまはげ がおたくん』の作者として知られる今野さんの才能は刺激的だった。
「彼との出会いは、ラッキーでした。一緒に写真部に入り、アニメーション同好会もやりました。授業の時、古文の参考書を忘れた今野くんに貸してあげると、見事なパラパラ漫画が描かれて返ってきたり。漫画ってこうやって描くものなのだと、技術的なことも彼を見て初めて知ったんです」
その出会いが人生を決めたと言っても過言ではないほど、感化された。
「タイプはまるで違います。自分は最後までストーリーを把握して場面をつくり、描きたい絵を描き、伏線を織り交ぜていくタイプ。彼は『最初からストーリーが決まっていたんじゃ、つまらない』というタイプ。やっていることは似ているのに、まるで違う。自分から見れば、彼の才能はうらやましい」
いまに続く友情が、描く漫画の土台にある。
会社員から漫画家へ
当時、東京・新宿のとある本屋のフリースペースが、漫画家志望のたまり場だった。大学在学中に「LEO」のペンネームでデビューの機会に恵まれたものの、漫画家の道へは進まずに大手ハムメーカーに就職した。本社勤務から三重の工場に異動した時、本屋の書棚で大学時代の友人たちの作品を偶然手に取り、くすぶっていた思いが再燃した。
1989年1月には昭和天皇崩御、2月に手塚治虫 氏が逝去。
漫画の世界から離れた自分を置いていくように、時代は確実に動いていた。「だれかに背中を押してほしかった、きっかけがほしかったのかもしれない。ノストラダムスの大予言もあるし、人生、やりたいことをやらなければならない」と、心を決めた。
退社後は、出渕 裕 氏や結城 信輝 氏らトップアニメーターのアシスタントを勤めながら、機会を待った。1990年、ペンネーム「奥田ひとし」の名で再デビューが決定。「ひとし」は高校時代の友人、今野 仁さんに敬意を評してネーミング。少しだけ回り道をしながら、漫画家人生が動き出した。
描きたい絵
アシスタント時代に始まり人気漫画家として東京で暮らしたころは、昼夜問わずフル回転で描く、想像通りの漫画家生活だった。富士見書房『月刊ドラゴンマガジン』『コミックドラゴン』などに連載を持ち、代表作は『でたとこプリンセス』やSF『天地無用!』シリーズ。『でたとこプリンセス』はラジオドラマやオリジナル・ビデオ・アニメにもなり、人気を得た。奥田さんの場合、「こういう絵が描きたい」というイメージが描く原動力になるという。
「連載をするのであれば、私の場合、この媒体でどんな作品を描いているのかを把握して、雑誌の色≠考慮して、編集者とストーリーの相談をします。大ざっぱに世界観が決まると、描きたい絵が浮かんでくる。キャラクターそれぞれの特徴を生かして、絡み合ったり、戦ったり、仲直りしたり。展開を広げていったりまとめたりの繰り返し。だんだん煮詰まってきたら、ストーリーを個条書きにして、ラストに向けた伏線をところどころに入れていきます」
ストーリーを組み立て、ギャグを考え、アシスタント3〜4人を抱えながら連載する多忙な生活のなかで、「腰痛や腱鞘炎が職業病だった」と笑う。枕元には常にメモ帳を置き、夢で見た話だけで丸1話を完成させたこともある。
「体さえ丈夫であれば、いつでもやれて、いつでも辞められるのがこの仕事。自分は努力をしてきたつもりだけれど、自分よりずっと才能があって努力をしても、うまくいかない作家さんは山ほどいる。自分は運が良かったのだと思います」
漫画家らしからぬ生活
漫画家生活を歩んだ東京から秋田に拠点を移して5年になる。「秋田弁でしゃべりたい」という思い、そして、いつも温かく見守ってくれた両親への思いから帰郷を決めた。いまは朝起きて日中は机に向かい、夜になると寝る規則正しい生活。毎日3食を自分で料理し、体調管理を心がけ、漫画家らしからぬ暮らしを送る。最近ではダイエットに取り組み、八橋運動公園を歩いたり、話題のスロージョギングも始めてみた。
「忙しくとも、規則正しい生活が基本。たまに両親とドライブをしたり、父親とゴルフをするのが楽しい。すぐ近くにいられることが、何よりうれしい」
コミカルでブラックなキャラクターながら、優しげな雰囲気のある漫画には、優しい「心」も映し出されているのかもしれない。 |