ライブの翌朝、眠い目をした彼は、スーツケースを引きずりながら現れた。前日は東京から故郷・秋田へ、この日は秋田から青森へ。その後は名古屋、横浜、茨城、東京など各地でのライブが待っている。ギブソンの赤いギターは、既に青森へ送ったという。「いつも一緒だから、たまには放してあげないとね」と、童顔をほころばせた。
一躍、世界の注目を集めたヘリテージ・ジャズギター・コンペから十年。若き天才ギタリストとしてジャズ界に現れた小沼ようすけは、今年、三十一歳になる。
経験重ねた音を
前夜のライブは、オルガン奏者・KANKAWA、ドラムのグレッグ・バンディらとの初めてのセッションだった。焼酎で水分を補給しながら徐々に熱くうねっていくオルガンに、ピュアな音色をつま弾くギターも、引きずられるように激しさを増した。
「三十歳なんて、ジャズ界ではまだヒヨッコ。年代が上の経験を重ねたアーティストは、本当にあたたかい音を持っている。一緒に弾いたり、音でやりとりをすることで、自分の中からわき出てくるものがあるから、いつも新鮮な自分でいられる。そうでないと演奏はさびたものになってしまう。その都度、違うメンバーと熱くなれるのが刺激的です」
投げかけた質問に答える話し方は、ギターを抱えたライブの時と同じ、静かなたたずまいだ。いつもはあまり酒を飲まない彼が、故郷で過ごした昨夜は友人たちと飲んだという。声が少し、かすれている。
二十一歳で世界へ
ギターを手にしたのは十四歳、ハードロックに興味を抱いた中学生のころだった。ジャズやブルースが好きでギターを弾いていた父と、オルガン教室を開いていた母。両親の影響もあってかギターにのめり込み、一日に十時間は黙々と弾いていた。友人たちとロックバンドを結成して、秋田市内のライブハウスで演奏したこともあった。
転機が訪れたのは高校一年のとき。授業の合間の休み時間にギターを弾き、教師に取り上げられてもやめないほど夢中になっていた彼は、高校を一年で中退後、上京して音楽専門学校へ入学する。ロックだけでなく幅広いジャンルの音楽を聴くようになったある日、耳にしたのがジョージ・ベンソン。秋田に帰省してドライブをしたとき、父親が車の中でかけた音楽に魅了された。
「ジョージ・ベンソンの、オールドスタイルで、ちょっとファンキーな感じのジャズ。『やばいな、これ、かっこいい』と思った。ジャズはコードの幅が広くて、可能性があるのがいい。エネルギーが凝縮されていて、センシティブな激しさと抑制された美学がある。音階、フレーズ、リズムなどは、立体的で、数学的。その瞬間ごとに、いいものを直感で音にして、うまくはまると気分がいい」
立体的で、数学的─。そんな音にひかれて本格的にジャズギターを始めた。ヘリテージ・ジャズギター・コンペの日本代表となり、アメリカで開かれた大会で注目され世界三位に入賞、二十一歳で世界へと飛び出した。三年後には、副賞のギターを狙って参加したギブソン・ジャズギター・コンテストで優勝した。それでも自信など、まったくなかった。
「いろいろな媒体で取り上げられて、実力以上に騒がれていたと思う。当時は、周りから妙な期待をされるのが嫌だった」
うつむき加減でそう話す。二十四歳までは、引っ越し業、ファーストフード、スタジオの受付といったアルバイトをしていたが、「どこにいても、無意識の中で音楽をやっていたものだから続かなかった。ダメな従業員でした」と笑う。長く続いたのは、結局、練習のかたわらにギターを教える仕事だけだった。
秋田の生活も下地に
ギブソン・ジャズギター・コンテスト後は、アルバム「nujazz(ニュー・ジャズ)」でメジャー・デビューを果たす。ライブ・ハウスやクラブでのライブ活動を中心としながら、年に一枚という速いペースでこれまで四枚のアルバムをリリースした。ジャネット・ジャクソンやスティング、レディオヘッド、ディアンジェロなどを確かなテクニックとナイーブな感性でカバーするほか、楽曲の半数はオリジナルだ。
追い込まれ、現実から逃げようとする自分、海をぼんやりと眺める自分、誰にも見せないありのままの自分、幸せなまどろみの中にいる自分─。あるいは、コーヒーを飲みたい欲求に駆られたときに頭の中に流れ出したメロディー、故郷の月明かりや風の音を感じながら作ったメロディー…。
「旅の途中に出合った風景や、その日、出会った人によって音が変わる。きのうは良く眠れたとか、食べ物がすごくおいしかったとか、その時々のことに音楽が左右されて、自分から出た音楽にさらに自分が感化される。人に対する大好きな気持ちや、もどかしい思いなど、プライベートな事柄が自分の音楽を潤してくれる。秋田という素朴な土地で生まれ育ったこともそう。それが普段、ギターを持ったときに何気なく音になって出てくるんです」
そんな彼の生み出すサウンドは、端正で美しく、耳に心地いい。この一年ほどの間に、フィンガーピッキングで弾くことに決めたという。これまでエネルギッシュで力強い音を求めていたが、経験を重ねるごとに、自分本来の個性を出せばいいと気づいたのだという。ふと右手に目をやると、親指の爪はピックの代わりになるよう伸ばしてあった。
「最近は、ピックを使わずに指先で弾く音が自分の個性だと思えるようになった。力強さへの憧れじゃなく、日本人にしか出せないやわらかさは大切なサウンド。でも自分の音を求めてさまよいながら、今もずっともがいていますよ」
音に人生刻みこむ
前夜は、ベテランに囲まれての有意義なライブだった。
「セッションは、お互いが音であいさつをしているようで好き。耳を澄まして、その時々のインプロビゼーション(即興)で自由に、自然な感じで表現する。ライブが派手な方向に向かえば、自分はあえて落ち着いてみたり、周りが落ち着き過ぎていたら自分で派手に持っていったり、美しいものに毒を入れたり」
そうやってバランスを取りながら、瞬間瞬間を楽しんでいるのが観ている側にも伝わってくる。
「ストイックに吸収し続けて、デビューして四年がたった。これからもいろんな人に会いたいし、あてもなく旅をしたり、イギリスやアメリカなどでセッションに自分から飛び込んでみることもしたい。人間、リスキーな方向へ向かった方がいいと思う。これまでとは違うアンテナが働くかもしれない。野性の勘っていうのかな」
一昨年の名古屋。世界的なハーモニカ奏者、トゥーツ・シールマンスとのデュオがラジオ放送のスタジオで実現した。八十歳を越え、体調によっては歩くのもやっとというシールマンスがハーモニカに老いた唇をあて、息を吹き込めて音を鳴らした。
「その時、幸せな涙が出た」
彼はそう言葉にすると、くゆらせたたばこを手にしたまま、間を置いて、目を伏せた。ひとつの音、ひとつの響き─。
「それは、僕が音で表現できると思っていたすべてを超えていた。優しくて、深くて、あたたかい。音に人生が刻み込まれている。この音はシールマンスの人生なのだと思った」
若き天才ギタリストは、センシティブで、涙もろい。人の心を動かす音、心に響く音の構造を知っている。
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