雄物川に程近い練習場への道は暗い。ぼんやりと灯りがともった管理室に、仕事を終えた選手たちが、ひとり、またひとりとやってくる。暗闇に動く影が大きい。
「きょうの練習メニューは?」
静かに話す低音の声が、少しずつ高まっていく。集まったのは約二十人。選手が準備を整えれば、まもなく監督がやってくるだろう。冷え込みの厳しい午後七時、練習場にナイター照明がふりそそいだ。
ラグビーは格闘技
近所を駆け回っていた少年時代から、ラグビーを知っていたわけではなかった。小学校では野球部、中学校では卓球部で活躍した。卓球は地元・男鹿市でシングルス優勝を果たしたほど。だが「秋田高校に入ったらラグビー部」と、決めていた。中学三年の時、最強といわれていた秋田工業高校と秋田高校が決勝で対決、秋田工が大逆転で花園行きを決めた試合を見たからだ。「強い秋田工を相手に、なかなかいい勝負をしてるじゃないか」。それだけではない。野球やサッカー、卓球など、自ら「スポーツジプシー」と表現するほどあれこれと取り組んだスポーツにはどれも物足りなさを感じていた。それが、秋田工対秋田高の試合観戦で、吹っ切れた。
「ラグビーは球技だが、体でぶつかり合う“格闘技”のようなもの。ルールがなく、ただぶつかって、何をやってもいいスポーツなのだと思っていた。気性が激しくて短気な自分には、ラグビーが合っているはずだと思った」
名門・明治大学へ
確かに気性には合っていたが、体づくりには苦労した。たびたび骨折や肉離れと付き合わなければならないほど、ラグビーは「体が資本」のスポーツだった。
「とにかく怪我が多かった。性格は無鉄砲でやんちゃ。授業をさぼって、練習時間になれば学校に戻ってくることが多かった。ラグビーそのものも尖っていた」
高校三年時は決勝で秋田工業高校に18対4で敗れ、花園行きはならなかった。悔しさはあったが、「ラグビーをしゃかりきにやる気はない」とも思っていた。教師を目指して地元の大学への進学も考えたが、「おまえみたいなやつに教師は向かない。大学に行ってラグビーをやれ」と半ばおだてられたのをきっかけに、ラグビーの名門・明治大学に入学。それまでの茶髪はとがめられ、合宿の過酷さや先輩後輩の上下関係、練習の厳しさなどは想像をはるかに超えていた。
「あそこで尖っていたら、命がいくつあっても足りません」
当時八十歳を迎えようとしていた故北島忠治監督の指導のもと、新出のラグビー人生が始まった。
前に進む目的と手段
「北島先生はプレーそのものよりも、プレーする姿勢や精神的なものを大切にする人。目立ちたがりで、格好良くプレーしたがる自分とは、まったく合わなかった」
監督の指導は単純明快だった。「まっすぐ前へぶつかっていけ」「体を犠牲にしてボールを守れ」「躊躇するな」「小手先でやるな」。だが新出は、基本プレーよりもサインプレーや派手で鮮やかなパスを見せつけたかった。「何を格好つけてんだ」。いつもそう叱られていた。心のなかで「自分はもっと派手な技術や戦術でプレーしたい」と反発しながらも、大学一年時はシーズン途中からウイングとして出場、大学選手権で優勝を果たした。
「地味な部分ばかりを重視する北島先生に反発していたが、今思えば、当時の自分は明らかに手段と目的をはき違えていた。格好いいパスやサインプレーはあくまでも手段だったはず。ロングパスが決まって喜んでいると、『なんでそんなパスをするんだ』と言われた。自分は見た目が良いプレーをすることばかりで、何のためにプレーするかが分かっていなかった。『前に進む』という本当の目的を忘れていた」
監督に「やれ」と言われたプレーをその通りにはやらず、格好良さにこだわる自分を、その時はそれでいいことと思っていた。だが大学二年時はシーズン後半でレギュラーから外れ、三年時はほとんどリザーブに。四年時は念願のレギュラーの座を確保するが、ひざの故障でシーズンを棒に振ってしまった。
「北島先生は多くは語らない人だったが、短い言葉で、単刀直入に叱られたその一言一言が胸に深く刻まれている。『前へ』という目的を、非常にシンプルに、真理として教えてくれた。突き詰めれば、ラグビーの根本はもちろん、物事の本質や人生についてまで教えようとしてくれていた」
そう気づくのは、新出自身が社会人ラグビーの監督になってからだった。
結核がラグビー観を変えた
秋田市役所ラグビー部は昭和三十三年に発足、かつて全国社会人ラグビー大会でベスト8入りを果たすなど全国にその名をとどろかせたチームだ。大学卒業後、すぐに地元・秋田に戻り市役所に入った新出は、迷わずラグビー部に入部した。しかし六年目、二十八歳の時に、練習と残業を行ったり来たりする生活が原因か八〇kg近くあった体重が七〇kgまで激減、健康診断で過労による結核だと診断された。「もうラグビーはできないかもしれない」。そんな思いをかき消すように、静養中はまったくラグビーのことは考えず、試合も見ずに過ごした。
ラグビーと離れた一年間を終え、二十九歳になった新出は体が以前とまるで違っていることに気が付く。体に切れがなくなっていた。
「一年間休んだことで、これまで信条としていた格好いいプレーをする体の切れがなくなっていた。プレーを続けるには、自分のスタイルを変えなければいけない。それまでがカミソリ系だとすれば、ズドンと前に行くナタ系にプレースタイルを変えた。格好いいパスはできなくなったが、ラグビーを常に前向きにやるようになった。ラグビーは、病気になってからのほうがおもしろかった」
クラブ化への原動力
結核から復帰後、市役所ラグビー部は数年で東日本リーグから落ちた。「これではいけない」とプレーを続けたが、新日鐵釜石との大敗を機に現役引退、監督に就任した。監督になってから、大学時代に指導を受けた北島監督の「前へ」という教えと、人生を説いた言葉のひとつひとつが身に染みた。
「どうも尻すぼみなんだよね、俺は」と、新出はいう。高校、大学、社会人と、選手としては最終的に良い戦績は残せなかった。社会人スポーツを取り巻く環境は厳しく、市役所ラグビー部も選手の高齢化などから転機を迎えていた。
「このままでは終わらせない」
自ら「尻すぼみ」と言うラグビー人生だからこそ、その思いが秋田のラグビー界を大きく変えるクラブ化への原動力になったと言えるだろう。地域の人々が支え、応援し、ラグビーというスポーツが地域貢献を担っていくクラブへの移行はこの春に実現、再スタートを切って初めてのシーズンを闘っている。
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