5月場所の後、故郷・秋田を訪れた。
「今場所は立ち合いが弱かった。調子が良くても勝てない時があったり、調子が悪くても勝てる時があったり。なぜ勝てないのか、自分のことが分からない時もある。『勝敗は時の運』と言いますよね。運命には逆らえない、ただ流れに身を任せるだけ」
場所中の取り組みを振り返って、そう話す。
ことしで三十路。
いま、力士として生きる「運命」の真っただなかにある。
「どうやったら強くなれるか、もっと強くなるにはどうすればいいのかを相当覚悟して、稽古している。人生は、一度きりだから」
押し相撲が持ち味
「相撲はルールのあるけんか。気合を表に出すか、出さないかの違いはあっても、皆が同じルールの下で土俵に上がる。同じ部屋で一緒に生活していても、まわしを付ければ誰もが敵。負けたら番付けが落ちてしまうから、稽古に励むしかない」
相撲についてそう語る。土俵で決める勝敗は、稽古の結果であり、時の運。それが厳しい勝負の世界だ。
豪風関の取り口は、低い重心からの強烈な突きと、押し。低い身長と広い肩幅を生かした押し相撲が持ち味だ。弾力のある分厚い上半身を支える両脚は、「鋼」という言葉が似合う強靱さ。堅く締まった太ももに触ってみると、力士たちが激しくぶつかり合い投げ合う相撲の凄まじさが容易に想像できる。
身長171cm、体重143kgという体は、決して恵まれたものではない。土俵に上がる時点ですでにハンディを背負っているが、「ハンディがあるからこそ、やりがいもある」という。力士にとって、闘争心を持つことと体の大きさに関係はない。
「勝ちたい。そして、強くなりたい、強くありたい。それは、女性が『きれいになりたい』と願うのと同じで、動物的で、本能的なものなのかもしれない。結果を出すためにいかに稽古をしていくか、その過程が大事。自分がどんだけのものなのかを知りたいんです」
柔道から相撲へ
相撲は小学生の時、町の「わんぱく相撲」で始めた。相撲だけでなく、水泳、ソフトボールなどでも活躍するスポーツ万能な少年だった。
森吉中学校では柔道部に入部。厳しい練習だったことから、「相撲だったら、柔道よりは楽かもしれない」との淡い期待を抱いたのが、その後の人生を決めた。
「当時、相撲といえばわんぱく相撲の楽しい思い出しかなかった。飯を食って、四股踏んで、まわしをたたいて、相手に向かっていけばいいだけ。わんぱく相撲の時の先生に勧められるまま、金足農業高校に入りました。親元を離れて自由になって、秋田で遊べる。楽しみでした」
高校での厳しい練習は、甘い意識を打ち砕いた。「3年間、続けられないのではないか。やばいな、と思った」と振り返る。
「柔道は引きつける技、相撲は押す技。それだけでも違うのに、高校では超スパルタの練習が待っていた。まるでとらわれの身。いま思えば悪いこともしたけれど、厳しい相撲で鍛えられた。これだけ練習をやったんだから、県内では負ける訳がないと思った。実際、そうでした」
東北大会や国体で上位の成績を残し、大学でも相撲に励むことになる。
念願の学生横綱に
淡い期待を抱いて相撲を始めた高校時代と違い、大学は厳しい練習で知られる中央大学をあえて選んだ。「もっと強くなりたい」という願いと、「強くなって帰って来たい」との思いがあった。
力士になることを意識したのは、意外にも大学4年の時。いい成績を残しながらも、プロの力士はまた違う存在だと思っていた。他の人に比べて小さい体で、プロでやっていけるのか─。そんな家族の反対を押し切り、練習に励んだ。当時、大相撲では千代大海の快進撃が続いていた。
「千代大海関はあこがれでした。あんな風に強くなりたい。あこがれの人に近づきたい─。たった一度の人生、やりたいことをやりたいと思った」
1、2年の時は重要に思っていなかった授業も、きっちり受けた上で試合に臨んだ。日本相撲連盟が主催する全国学生相撲選手権大会・個人戦で優勝し、学生横綱を獲得。これにより大相撲では、幕下15枚目格の幕下付出で初土俵を踏むことができる。
2002年、尾車部屋に入門。いちかばちか、力士としてやっていけるかどうかの勝負に出た。
新しい自分探し
「豪快な相撲で豪華な風が吹くように」と、師匠の尾車親方から命名された「豪風」の名で新十両、2003年には新入幕。けがや病気を患いながらも、08年1月場所では自己最高となる12勝で初の敢闘賞を受賞した。 「稽古は自分磨きだと思う。しなくていい苦労はしない方がいいが、それでも努力はした方がいい。努力していれば、人生きっといいことがある」
朝8時前から始まる稽古は、準備体操から四股、すり足、チューブトレーニング、ぶつかり稽古へと続く。15日間もの長期に渡る場所中に必要な体力をつけるには、自主トレーニングも欠かせない。場所後はそれぞれに過ごし、自分の好きなトレーニングをするが「負けた者に休みはない」と厳しい表情でいう。
「好きで入った世界だが、ちょんまげを切って辞める日は必ず来る。でもまだ、限界は見えていない。芯ができてきた自信はあるから、自分はどこまで強くなれるのかが楽しみ。今後は、新しい自分探しになるのだと思います」
古来からの系譜
相撲の起源は、『古事記』や『日本書紀』の時代にまでさかのぼる。聖武天皇の時には、各地から相撲人(力士)が集められて節会相撲が行われ、それは300年以上もの間、宮中の儀式として続いた。七夕には神前で相撲を取って豊凶を占う農耕儀礼があったり、室町時代には職業力士が生まれ、土俵が考案された。時代とともに興行化されていった相撲は1909年、国技館の開設を機に国技としての地位が確立された。そんな歴史と伝統が、稽古の所作ひとつにもうかがえる。
例えば「四股を踏む」。土俵上で足を開いて構え、左右代わる代わる高く挙げて力を込めて地を踏む所作だ。足腰の強化とバランス調整に欠かせない重要な稽古だが、地を踏み鎮めるという宗教的な意味もある。力士の四股によって大地の邪悪な霊を鎮め、春先の大地を目覚めさせて豊作を約束させる。
「相撲には歴史や伝統はあるが、それらは守るものではなく、大切にしていくもの。伝統ある相撲であっても最先端にいなければ、いつか時代に置いて行かれてしまう。その時代に合ったものにしていくのが、相撲なのだと思う」
大きな体で大地を踏み、ぶつかり合い投げ合う力士たちは、日本人にとって神々しい存在だ。力士に抱く特別な思いには、強さにあこがれた古来からの系譜があるのかもしれない。 |