Masato Tsuchida 土田 雅人さん
サントリーラグビー部 前監督(サントリー株式会社 西東京支店長)

だれよりも願い、実行し、だれよりもかなえた男がいる。
勝てる組織をつくるために、改革したものは何だったかー。

 大学選手権三連覇を達成した”ナンバー8“は、就職先にサントリーを希望した。「鉄や自動車を売っている会社でもいいだろう。酒を売って、どうする」。神戸製鋼やトヨタ自動車もあるぞと、冗談まじりに言われた。
 「スーツを着て、仕事をする一方でラグビーをやれるのは、秋田市役所とサントリーぐらい。一生を考えればスポーツだけではない。人生のなかでビジネスは重要な位置にある」
 サントリー株式会社入社後は、東京南支店、東京支社などで営業マンに。プロでない以上、夜7時から始まる練習まではサラリーマン。ラグビーで脚光を浴びながらも、仕事とラグビー、両方をこなすことがそれぞれのポジションに立つ者としての「責任」だ。
 監督を退任した今春、西東京支店長に就任。約100人の部下を持ち、八王子市、町田市など人口約400万人の区域で酒類販売ルートを統括する。大柄な体と、礼儀正しく誠実に向き合おうとする姿勢が印象的。黒いスーツは、ある時はスタンドから戦況を見つめる監督として、またある時は得意先を開拓するビジネスマンとしての戦闘服。着こなす姿が、潔い。


攻め続けるために

 「ヘッズアップって、何ですか?」。サントリーラグビー部「サンゴリアス」のファンからメールが届いた。試合中、選手が大声で叫んでいた言葉「ヘッズアップ!」は、土田監督が掲げたキーワード。選手が、応援するスタンドに聞こえるほど大声で叫び、ファンもそれに気づいてくれていたことが、うれしかった。
 「人は疲れてくれば頭を下げるが、気力があれば頭を上げ、苦しさに顔をゆがめながらも背筋を伸ばす。ラグビーは、相手チームが何を考え、仲間がどんな状況かを言葉で伝え合わなければならないスポーツ。コミュニケーションがなければ、ラグビーは勝てない」
 それはフィフティーンだけではない。スタッフを含め、60数人の心の中には監督が示したキーワードがある。攻め続けるために必要なのは、コミュニケーション。だからこその、ヘッズアップ。土田監督が目指したラグビーを象徴する言葉だった。


社長の熱意で監督復帰

 1995年、監督1年目でサントリーを初優勝に導いた土田さんは97年、平尾誠二率いる日本代表のヘッドコーチに就任し、第4回ワールドカップに出場。2000年の退任後はラグビーから離れ、仕事に精力を傾けようと決めていた。部下20人を持ち、営業の仕事がおもしろくなっていた。そこに突如、監督復帰の話が舞い込んだ。サントリーは2000年1月の全国社会人大会で56点差で大敗し、強い組織を作る新しい指導者を必要としていた時だった。
 監督という立場をいったん退いた土田さんは、復帰への依頼に「佐治信忠社長が私に頭を下げるんなら、お引き受けしてもいいですよ」と冗談まじりに断った。ところが社長は、土田さんを呼んで言った。「強い組織を作り、継続的に勝てるチームにしてほしい。3年で優勝してくれ」。その熱意が土田さんの心を動かした。「ラグビーも仕事も一緒だ」。そう言われた気がしたと振り返る。
 どうしたら、サントリーを強くすることができるのか。再び監督に就任した2000年春、選手を集めてヒアリングを行うと意外な言葉が返ってきた。選手の口から出てきたのは「練習時間が遅い」「芝生が悪い」「練習前の仕事量が多い」などの不平不満。「これでは話にならない」と思った。しかし、ここから、サントリーの快進撃が始まったのである。


改革にはビジョンが必要

 改革に当たって、まず、チームを任せられるキャプテンを決めた。平均年齢27歳のチームのなかで、強い意志と責任感を持っていたのが、当時23歳の大久保直弥。経験が浅かったが、選手たちに競争心を奮い立たせようと主将に指名した。ファイティング・スピリットが、選手のなかでずば抜けていたからだ。しかし、小手先のサインプレーや判断力で、百戦錬磨の王者・神戸製鋼に勝てる訳がない。そこで、ボールをキックして前に進めていくラグビー・フットボールではなく、ボールをつなぎ、キックを多用せずに走って攻め、継続していくラグビー・ハンドボールに切り替えた。有無を言わせず、これをパターンとして型にはめ、なぜこうしなければならないのかを選手にとことん考えさせた。
 次に目指したのが、コミュニケーション。ラグビーや仕事の話を腹を割って話せるよう、夕食時に使うテーブルのレイアウトを変えた。これまで10分だった夕食が40分になった。さらに、37人全員が考えていることを知るために、ひとり3分間のスピーチをさせた。自分をプレゼンする能力、現在の状況を的確に伝える能力を鍛えるだけでなく、「試合に出なくとも、いい心を持っている選手がいる。それをレギュラーに知ってほしい」との思いがあった。そして、選手をサポートするメディカル部門を含めた組織全体を一体化するため、テーマを提示。これにより、組織には一体感、個人には責任感が生まれた。2000年のテーマはファイティング・スピリット。キーワードは試合ごとに、タフネス、スピードなどを示し、キーワード通りに動いた選手は使い続けると約束した。
 サントリーに必要なのは、ビジョンだった。ビジョンさえ示せば、選手はなんとかしてそれに向かってついてくる。土田監督が掲げたビジョンは、ただひとつ、日本一。佐治社長には「強い組織にして、3年で優勝を」と言われたが、そんなつもりはまったくなかった。1年で、サントリーを日本一にしようと決めていた。

こだわり続けた「日本一」

 ”日本一“は、土田さんの口からよく発せられる言葉だ。中学までやっていた野球を辞め、ラグビーを始めたのも日本一になるため。「秋田で野球を頑張っても、甲子園で優勝はできないだろう。日本一への道に一番近いのは秋田工業のラグビーだ」と、両親の反対を押し切って進学。ルールもまったく知らずに飛び込んだため、初日はジャージに野球のストッキングを持って行って笑われた。厳しい練習に耐えたがベスト8どまり。日本一にはなれなかった。
 念願がかなったのは、同志社大学2年のとき。カリスマ性があった平尾誠二とは同窓で、友人であり、よきライバル。ともに大学2年から4年まで、大学選手権で3連覇を達成。サントリー入社後は、95年に監督として日本一に導いた。必死に”日本一“にこだわり続けてきて、ひとつの確信があった。それは、勝利のためには大きなビジョンを持つこと。
 「ビジョンを持てば、一人ひとりが現状を把握して、計画を立てるようになる。強い意志と責任を持つようになる。神戸製鋼を倒して日本一になるというビジョンがあれば、必ず勝利する」
 日本一を目指せば、日本一になるはず。それは、子どものころから”日本一“のみを追い続けてきたゆえの確信だったに違いない


日本選手権で二連覇

 選手の意識を改革し、ラグビーのスタイルを変えて迎えた2002年1月の全国社会人大会。準決勝の対神戸製鋼戦は38対41で惜敗。負けはしたものの、前年優勝の王者を相手に後半43分までリードし、組織力を活かせたと思っていた。しかし、試合後のパーティーで、神戸製鋼のメンバーに言われた。「負けても悔しくないって、おかしいですよね」。その言葉をバネに、ひと月後の日本選手権決勝では、神戸製鋼と同点ながらも5年ぶりに優勝。1年で見事、日本一の座を手に入れた。
 1年前には不平不満しか口にしなかった選手たちから教わったのは、自分で教えたはずのファイティング・スピリット。「気力は才能。継続は努力。運は実力。自分の限界をつくらずに、チャレンジし続けることこそが勝利をもたらす」と実感した。翌年は単独で日本一となり、2連覇を達成。対ウェールズ代表戦、全国社会人大会など公式戦全勝の快挙を遂げた。継続ラグビーという新たなスタイルで、勝てる組織ができあがった。

 自ら監督退任を決めて迎えた2003年2月の日本選手権。決勝戦では、最後の最後でNECに破れた。土田監督は、「日本一になれるはずのチームを、自分の采配ミスで負けさせてしまった。選手に申し訳ない。自分はやはり、勝負ごとはダメだな」と話す。どんな思いで2年間闘ってきたかを伝え、意見をぶつけ合い、後継者を育てるために過ごした3年目。その最後に日本一になれなかった悔しさは、言葉にできないものだろう。「このことを、一生背負って生きなければならない」と表情を硬くする。
 ラグビーの伝統を破壊し、新たなスタイルを創造した土田さんは「日本一」の言葉と同じぐらい「責任」という言葉を口にする。だれよりも日本一を目指し、だれよりも責任を持つラガーマンだ。


人を育てることが大切

 ラガーマンは、営業成績も優秀だ。トップセールス40人のなかでラグビー部員は4人。そんな選手を土田さんは誇りに思っている。「仕事とラグビーは共通している部分が多い。どちらも個人が組み合わさった組織であり、責任がある。組織力の真実は人。大事なのは、人を育てること。それはラグビーも仕事も同じです」
 ラグビーは、ボールを前に放ることができない。前進するには、自分より後ろにいる人にボールをまわし、つないで前にいくしかない。自分がタックルを受けても、つぶされても、自分より有利な人にボールを渡さなければ道は開けない。ラグビーを語れば、ビジネス論にも、人生論にも通じるのが不思議だ。「勝つだけではだめ。サントリーの試合はおもしろいと思ってもらいたい」と話すのも、おもしろく、味わいある人生のためのレシピ(秘訣)なのかもしれない。
 「三十代はラグビーと仕事を両立した。四十代は仕事に専念したい」
 背筋を伸ばし、堂々としたスーツ姿で、夏の芝生に立った。広大な緑の芝生の上では、土田さんの大きな体でさえ、小さく見える。芝生の上でぶつかり合って勝負してきた男は、ビジネスでもブレることはないだろう。凛とした立ち姿に、揺るぎない信念が見えた。

(2003.7 Vol41 掲載)

つちだ・まさと
1962年、秋田市寺内出身。秋田工業高校でラグビーを始め、高校3年で日本高校代表に選出、豪州遠征参加。卒業後は同志社大学に進学しナンバー8として活躍。大学2〜4年で平尾誠二、大八木淳史らとともに大学選手権3連覇。85年サントリー株式会社入社、89年からラグビー部主将に。現役引退後、95年からサントリーラグビー部監督、日本代表ヘッドコーチを歴任。2000年、再びサントリーの監督に就任し、史上初となる日本選手権2年連続優勝の快挙に導く。2003年、日本選手権準優勝を最後に監督を退任。現在、サントリー株式会社西東京支店長。家族は夏子夫人と三女。趣味は読書。